マイク・タイソン負け試合 体も心も調整不足 噛み付いちゃだめよ

1990年2月11日
プロになってから一度も負けたことのなかったマイク・タイソンが
ジェームス・ダグラスにKO負けした。

場所は東京ドーム。

関係者によると、
来日したタイソンは、前回1988年にトニー・タッブスとのタイトルマッチで来日したときとは別人の感があったそうだ。

88年には、初日からストイックなトレーニングをしていたが、
90年には、全くトレーニングをせず、
ショッピングに出かける以外は、ホテルにこもりっきりだったそうだ。

見かけも精彩がなく、前回のような威圧感はなくなっていたという。
もうボクシングはうんざりだ。やめたい。と知人にもらしてもいた。

一方、対戦相手のジェームス・ダグラスは、
知人たちに、ファイトマネーが欲しくて負けに行くのかと揶揄される中で、
お前なら必ず勝てると信じて励ましてくれた母親を1ヶ月前に亡くしていた。

気合は最高潮だったろう。
勝負は対戦する前に決していたと言っていい。

その後のタイソンにかつての精彩が戻ることはなかった。

少年院からタイソンを引き取り、
ピーカブースタイルボクシング(顔面を防御しながら、常に頭を動かして相手のパンチをかわし、
低い姿勢から相手の懐に入り、急所へのコンビネーションパンチを繰り出すボクシングスタイル)
を教え込んだ恩師カス・ダマトが85年に亡くなり、
ダマトの意思を継ぎ、タイソンを支えてきたチームのマネージャーだった
ジム・ジェイコブスが88年に白血病で死去する。

そのころから、
生前、カス・ダマトが
「グリズリーには近づいても、ドン・キングには絶対に近付くな!」
と言っていた大物プロモーター、ドン・キングがタイソン獲得に動き出す。

ドン・キングはタイソンの妻をそそのかし、ファイトマネーの分配が不服として、
タイソンを支えてきたチームタイソンを告訴させた。

タイソンは妻の側につき、
ダマトのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを解雇。
ダマトが残したチームは崩壊した。

タイソンはドン・キングとの契約を正式に結ぶ。

その後、離婚、自殺未遂、交通事故、耳噛み事件、度重なる試合の延期、
さらに、レイプの疑いにより収監・・・

どうもアメリカという所は、アメリカンドリームを掴んだ者に金の亡者たちが群がり、
寄ってたかって食い潰してしまうようなところがあるように思う。

カス・ダマトがあと5年、あるいは3年生きていたら、
マイク・タイソンというボクサーが、どんな高みに上り詰めていたかと思うと残念だ。

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